2021/06/30

 小雨 寒い

存在がパーツにわけれるか/身体をパーツにわけるかどうか/存在や身体を千切るとき、存在は(あるいは魂は)どこにあるのか。

知覚できないところも身体かどうか(身体なら他者が触れば知覚が起きる)/認識していない要素もアイデンティティなのかどうか/(現前しないものも含めて、)一枚のアイデンティティとするか否か、アイデンティティはパーツだとするか/取り出して語れるもの。語れないものはアイデンティティじゃないのか→それが他者から指し示された場面で、たしかに自身であると自身の認識が及べばアイデンティティであるのか。その深くにインストールされている振り付けをアイデンティティと言うのはあまりに生きることとアイデンティティを同一視しすぎではないか。アイデンティティが見出せなくて困ってるひとが生きていられるということは、アイデンティティはなくてもいいものだからだということなんじゃないか。なくても生きていけるが、無いといけないような「何者かであらねばならぬ」という刷り込みがあるということなんじゃないのか。アイデンティティは基本的に外からやってきて、「わたしらしさ」の存在を求めてくるような押し付けがましいものだと感じる。社会や他者がなければ必要のないことであるように思う。

またアイデンティティ複数あることが認められないのであればわたしは生きていられないし、「さまざまな要素があれど、あなたはあなた」だとしても、「わたしの中のさまざまなわたし」が存在する主語の違いによる指し示す対象への向かい方とその深度がまたその中でも違和感があることを受け入れろというのは酷なことであって、(ボディポジティブに賛同できないのはそういうところだが)違和感を感じることが必ずしも悪しきことというふうにもわたしは思えない。ありのままを引き受けて、「この存在が〈わたし〉という現象なのだ」いうことはあまりにも現実に起きている違和感と乖離しているように思えて、たとえば〈わたし〉が〈わたし〉を嫌うことを拒まれるようであったり、たとえば太っていることを指して他者からなんと言われようがポジティブでもニュートラルでもなにかしら受け入れ喜ぶという意見に理念としては賛同しみんながそうなれたらたしかにいいよねーと思いつつも、他人事の域を出ることができないのは、マインドセットによって変化できるようなものでもなく、それが取り替え不可能であり可変的な〈わたし〉ないしはアイデンティティと言葉の上で相似形を描いたとしても、〈わたし〉らしさに〈わたし〉が同意していないことが含まれるという状況を良しとするよう食い下がられるような社会では全く生きていける気がしないですな。ドコドコドコとやってきて、通告されるようなことじゃない。アイデンティティは善でも悪でもないし、しかし差異によってジェンダーがありありとする場面はあっても、差異がジェンダーだとは思えないし、アイデンティティはやっぱり一枚ではなく複数あるということにしておいた方がいいんじゃないのかと思うだよ。

自分でも何が言いたいのかあまり言葉で整理できていないけど、なんとかなるのだろうか。

そもそもアイデンティティという言葉に、その鋳型に固執して考えることでなにかがあるのかどうなのか。