2021.6.24

  曇り。昨日の日記に「経験を共有するというのはいったいどんなことなんだろう。たとえばVRみたいに一人称が他人に移植されるような日記は。」と書いたが、人称が他人に移植されるというのは「共感」であってはほしくないなと朝一番に思う日だった。電車の中でもそう思った。共感の嫌なのは、そしてそれが現れるのが嫌なのは、わたしの感性が言葉が蹂躙されるように感じるからだ。共感よりも交感がいい。共感が「わたしにもこの経験がある」ということを思い起こさせるとするならば、交感は「この経験はないけど、翻訳を受け取ることができる」というような感じかもしれない。

 「女の子の部屋」。Kちゃんが企画している共同制作のビジュアルイメージが「女の子の部屋」なんだけど、それがいわゆるピンク/ふりふり/kawaii的女の子イメージに向かっていて、まあ個人の趣味だしいいんだけど、趣味の範疇でやってしまうのは美術じゃないんじゃないの?と思ったりどうにか楽しくバックラッシュ化を避けたいとか、あるいは見越して扱えるものになるといいなと考えてる。どうやって伝えたらいいだろうか。ジェンダーを作品で扱う時、人やものや空間に演じさせる時、作者自身も自身のジェンダーについて考えないわけにはいかないと思うのだけど、「女の子らしい」とか口から出すときにもそれに自分が与するの抵抗を感じるとかあるんじゃないかと思うし、usよりもIとして語るべきと思う(youは最悪って思うことが多い)。主語がIであるとき前提として共感の気配が漂うだろうか。usは連帯だろうか。交感の気配が漂う主語はなんなんだろう。