2021.6.11

 晴れ。日が長くなりすぎて7時を5時くらいと錯覚する。脳が春を引き伸ばしているみたいに夕方が長い。 Nさんが熱中症で倒れたらしい。Nさんが日記を書くとしたら熱射病になったことを書くのだろうと思うと、他の人が別の生を生きているのだということが急に鮮やかに感じられる。(他の人、他人、と書くことになんら抵抗を感じたことはなかったが、私の、というよりもこの生ということでしかなく、知ったことと知らないこと、ありえたことがこの生ではない場所に起きたというだけで、他のとか別のとかそう言った言い方では表現できていないような気がしてくる。他の人、というのは単に説明だ。私の、というのも現象を取り回しやすくしただけにすぎないのではないか)

 同僚のIさんと観葉植物の画像を褒めながら帰宅。育てるのが上手いわけではないが観葉植物を集めるのが好きなので、―― インテリアのためではない。インテリアに気を遣っているのであれば、部屋を片付けたり掃除機をかけたり、色々としないといけないことが山ほどある――たまにサーチする。地面にある植物は体積よりも面積に注目ができて土と草を分けて見ることができる気がするが、鉢植えに植えて家の中にある植物は、鉢植えの中にその環境を完結していて植物がその生をアレンジをすることを抑制することになっている。とはいえ、外も屋内も同じように草は動かず、面積を伸ばすことで自己完結的に繁殖し、ごくローカルな環境を全身で受けて応答する。

 現在参加してるRAUの「都市と芸術の応答体」で土木のことを色々と語っているのを見聞きしていると――そこでは土地という言葉が使われる――植物のことやら土のことやらが思い起こされてきて、「どうしたら植物や土のような観察の仕方で人間が土地を見る(あわよくば表現する)ことができるのか」という話がされているような感じもする。話が逸れる逸れる。

 人間の尺度で植物のことを引き受けようとするときの違和感は、人間に起きる現象を病理として扱い病院に囲い込む違和感と似ている。観葉植物を枯らさないように場所を変えてやったり水やりのタイミングを計ったりすることはケアなんだけど、ケアする範囲に植物を引き込むということは私のdoingの範囲を拡張するということで(それがあればこそ日記が書ける)、植物やケアのことを考えるなら病院という施設と制度のことを知らないといけない気がする。というところまで書いて、ついに日記を書きながら寝落ちしてしまったので今日はここまで。