2021.6.2

 昼は暖かくて夜は肌寒い。大きくて重くて薄ぺらいものを朝から運ぶ。延滞した本を図書館へ返し、別の本を借りた。借りたかった本のうち3つは借りることができなかった。仕事で使うのに。困った。閉架や禁帯出の本を図書館の中で読む時間を作れる人と作れない人がいて、それでも図書館は開かれていると言えるのか。学内で使うと説明しても、先生は借りれるけど私は借りれないとつっぱねられる。おかしい、それならわたしを今すぐ先生にしてくれ。それは半分冗談として、明日か明後日意見書を出そう。(追加メモ:無料で使える大型のスキャナーを導入してほしい、階段が暗い、飾られている絵とキャプションが汚れすぎているので要掃除)

図書館の前はテラスになっていて景色が良く風も通るいい雰囲気の場所だが、くつろぐ人はほとんどいない。学生の動線上ではなくしかも急な階段があったりしてアクセスがとにかく悪い。しかしとても気持ちのいいところにある。こんな感じで、用途と配置がチグハグで埃が溜まる感じの場所が東京造形大学には多い気がする。

アクセスをよくするとか、ハブとして機能できるような広場を設けるとか、ドアを大きく取るとか壁をつくらないとか道を広くするとか灯りを入れるとか、行き来を作り出したい時にまずやるべきいくつかのお約束みたいなものがあり、大学のような施設ではそういうものが守られることで人の動きが活発になるが、磯崎新が建てた部分の東京造形大学はそうじゃないように入念に作りこまれているように感じる。図書館のテラスでくつろぐ人はほとんどいないが、とはいっても一人二人くらいはあの素晴らしい空間でのびのびとしている。多くの人が休憩する開けたスペースとしてでなく、一人でいたい人や友達作りに悩む人が一番いいところを見つけそこに居れるような可能性にひらかれていると言えるのかもしれない。閉じ込めないままに一人になれる場所を作り出すというのはかなり重要なことで、大勢をどうにか、という人間を数にしてカウントするような施設がおおい中で、もしそういったところから脱するコンセプトのもとに大学を設計して、それが使う人の振る舞いをも振り付けているのだとしたら大したものだ。カリキュラムには「領域横断」「ハイブリッド」などの言葉を使い学科や研究室を設けず専攻を配置するなど流動的で有機的な目論見を軸に置いている学校に、建築は――磯崎新の理念はどうか知らないが――一人になれる空間が立ち上げられている。え、それどんな組み合わせ?(でも嫌いじゃない)

とにかく今日は、図書館に腹が立った日であった。