2021.6.13

 今日はずっと家にいた。スーパーに行く以外一歩も家から出ない。久しぶりの引きこもり。今日はもう全部どうでもいいやという気分になりマックを買い込み暴食をして、気持ち悪い。不健康な日曜日を過ごした。昨日は鯛飯を拵え、餃子まで作ったというのに今日はパジャマからパジャマに着替える(一応着替えるだけ偉い素晴らしいすごい)。何かのバランスを取ろうと半額のカットメロンを食べる。

 ツイッターでぼやいたことが結構拡散されていて、別にクソリプ的なものも来ていないがめんどくせ〜と感じる。Retweetされることによって、個人的な意見として言ったことが誰かの意見の代弁のように機能させられているのが不快だと思った。共感しんどい。

 『「シェア」の思想/または愛と制度と空間の関係』で読んだ国分さんのインタビューの中には「カーシェア」を例に出しながらシェアは単に共有というだけでなく「占有」も含んでいるということが書いてあった(CSLABの運営にも大変参考になるなと心に大きめの字でメモった)。この考え方でいえば、純粋にシェアと思い込んで行う、(共感の入り混じった)リツイートという行為には、ツイートをツイ主から引き剥がし――それでも決して引き剥がれてしまうことはない――単に情報として――発言者を引き連れて――シェアするという一つのURLを持った情報としての「ツイート」への向かい方のギャップが潜んでいて、引き剥がれないがゆえに、誰も占有できない状態となって、シェアだと思って行なっていたことが実は不完全なシェアだけが行われているということなのかもしれない。(支離滅裂すぎてやばい..)

 Twitterにおいて真にシェア的な振る舞いをしているのはいわゆる「パクツイ」で、犬の動画だとかパクツイは情報を引き剥がして行われる。落とし物を拾って自分のものにした後でそれを別の人に貸すように所在が浮いている状態?(引用といえば伊藤亜紗さんの『ヴァレリー 芸術と身体の哲学』のことを思いだしたりもするが、日記にささっと書くには重たいのでやめておく。並べて刻んで考えたいことのメモに入れておこう)

 リツイートの取り扱いはそれぞれ違うはずで、「Retweetは賛同を示しません」をわざわざbioに書いている人もいるが、私はフォロワーと未来の自分の目につくところに貼り付けるというイメージで、とにかくシェアとしてあのマークをタップする。「いいねは賛同を示しません」ならわかるが、シェア機能であるリツイートをそういうふうに使うってあの仕草はどういうものなんだろ?晒しなんだろうか。不思議。