2021.6.5

 9月に森美術館でワークショップをやることになっている(企画書をメールしないと)。ワークショップのアイディア:ステップ1_身体を下からたどって、股まで登ったらそのまま足を持ってふたつに割く。 ステップ2_割いた身体の左側に、自分の全部の要素を入れる。ぎゅうぎゅうになる(ビジュアルイメージで突破する)。右側は空っぽになっている。何がある? 半分違う人になる。それか、何かに挟み込んだり、多い被させたり。なんかちょっとアンビエントな雰囲気にしたいかも。自分を乗算するワークショップにしたい。やっぱり粘土使うのがいいかも。粘土とアンビエントは似合う。嫌いな人も多いようだけど、私は紙粘土のあの不気味さが結構好き。でもオンラインなんだよな〜。
 去年の11月くらいにジェンダーゼミの人に勝手に声かけて画面オフにしみんなハンズフリーしてそれぞれの家で踊り、その実況をして想像しながら真似をして踊りまくる遊びをやったけどとても楽しかった。人に見られてない状態だからなのか、集中できる環境だった。山登りみたいだったかもしれない。他の人の状況は見えないけど、「暑い・・・!」とか「ちょっと休憩するッ」とかいちいちみんないうようになっていたので、半分身体がリンクしているように感じた(脳筋っぽくて気持ち悪い発言だろうか)。
 私はそういう遊びの提案みたいな感じで作品を作っているような気がするので、今朝聞いたクレア・ビショップの講義は結構勉強になった。いつもビショップは、わざわざ言うまでもないことを「」にいれて語っているように思えて仕方ない部分もあり、リレーショナルアートをいかにアーカイブするかが美術館や美術史家にとって喫緊の問題であろうから仕方ないかもしれないけれど、知らない人といかに遊ぶかというアプローチを、単純に政治性ばかりに結びつけるのとか勘弁してよと思ったりする。政治的ではない作品なんてあるのか?(ないだろ)勝手にやっていたって、それは何らかのポリティクスが働いているし、応答であるし、それでいて働いていないなんていうのは、先日からツイッターでいっぱいいろんな人たちが意見を言っている「セレブバイト」理論とかわらない。経済的な理由や、ジェンダーや、人種や、年齢、家庭状況、サイトスペシフィックな問題、タイミングスペシフィック(この言葉は今日知ったが、別にビショップによる新たな発見というわけでもない。今気になることに対して今反応を返すのが一番具体的で効果的というだけの話だ。)、当たり前の話でしかない。リサーチベイストのアーティストという言い方があるが、リサーチをしない人なんていない。全て程度問題だ。というか、それよりも問題なのは、なんか同世代のアーティストに多い気がする適当に作られたリサーチベイストな作品だ。なんか相似形にある要素をそれらしく配置して耳障りのいい言葉とか「演劇性」みたいなものでカバーしている気がする。特に「演劇性」について理論的な面から向き合っていないのに、そういうことをしている作品はまじで危険だと思う。関わりたくないとすら思う。絶対に嫌な思いをする人がそのうち出てくる。とにかく、リサーチベイストを自称するアーティストたち、集めた要素をマニュピレートしてしまう傲慢さがやばい。その辺りは田中功起さんが10年も前に乗り越えたはずなのにまだやるんかいと思う。
 かくいうわたしも「参加型」の理論的な側面を確立させないと、今自分が「演劇性」に感じている危機感をそのまま再生産することになりそう。そのヒントになりうることとして、先日まろんさん言ってくれた「ケア」の視点がある。ケアについては確かに興味があって、勉強していると言えるしラボの仕事はほぼほぼケアワークが占めるが、その働きぶりをみて作品とも(おそらく)結びつけて言ったのが「ケア」である。確かにと思う。近いうち、自分の過去作についてケアの観点から書くのを試みようとおもう。今日はリサーチベイストの愚痴を書いてたせいで疲れてしまった。

 黑田菜月さんの展覧会をみて、会場で黑田さんとケアの話を少しだけした。展覧会には写真について語る映像作品が2つ。どちらもとても素晴らしいものだった。写真にはいろんなものが写っているのね。