2021.6.3

 晴れ、少し肌寒い。ラボ日記にならないように努めるのが大変。ずっとラボにいるので仕方のないことだけど。

といいつつ、今日からラボでワールドおさがりセンター。古いおもしろい民具が大量に運び込まれ、それを好きなだけ持っていっていいという夢のような企画。一度も足を踏み入れてこなかった彫刻の教授みたいな人がラボに入ってきて、いそいそと「瓢箪」にのぼり巨大な桶を泥棒のように抱えて足早に出てゆく。大きな箪笥を下ろせない者、転売を企てる者、気に入った花器のようなものを嬉しそうに持ち帰る者。探し物をする目が野生的で面白い。大きいものを持ち出す人は大体泥棒みたいになっているし、小さいものを探す人は他人の箪笥を開けて物色しているようでやはり泥棒みたいだ。私も早々とガラスの香立て(!)を盗んだ。盗みではないのだけど配置を崩して会計や交渉の儀式を経ずにものを得るのはやはりどこか動きがぎこちなくなるし、だから貰うよりも拾うよりも盗むの方が私には心地よく感じる。泥棒たちがいいものが手に入ったと嬉しいままに、ものをポケットに入れたりそのまま担いでいく様はとても愉快だ。手を繋ぐように持ち手のついた花瓶を持つ人を初めて見た。


骨の名前を呼ばれながらからだに触られるアイデアを覚えておきたい。映画を見て表現方法を学ばないと。まともに演出や編集を入れた映像作品を未だ作ったことがないのは、どうやったらカメラに関係が映るかを知らないからだ。見る経験を他人任せにしてきたけれど、作るとみるが一体化しているのなんてまさに映像じゃないか。インタビューなんかの時の、話す順序を入れ替えてパロールをラング化する(言葉がおかしいかも)ように文章を組み立て直してしまうような作業の非人道的な雰囲気とか、時間にもれなく言葉や振る舞いが張り付いている様。編集の時にはそれが気になってしまって、写っている内容にもましてその気づきの方が面白くなってしまって何も進まなくなったりする。初めて会話をつなぎなおすような映像編集をしたのは卒業制作の時だったが、それを経て斎藤玲児さんの作品を見た時になんてことをやってるんだと驚いたのがずっと残っている。玲児さんの映像には発話による会話らしい会話は出てこなく、目だけがずっと映像の中で時間を乗り移りながら同時に私の目と身体はこの体とともに映像が進む分だけ時間を滑っていくのだが、映像編集というのはこんなことを――目がスクリーンに張り付いているように、見るものの時間や身体に強く介入してくる――させることができるメディアなのかと驚いたのだった。

全然日記じゃなくなってしまったけど、ここまで書いてみて斎藤さんの批評を福尾匠さんが書くのを読んでみたい(多くの人がそう思っているんじゃないか)と思った。そして斎藤玲児さんの作品をまたみたい。私は斎藤さんの作品がとても好き。